2011年3月11日に起きた東日本大震災
あれから5年が経ちました。
皆さんは、あの日あの時、どこで何をしていましたか?
当たり前に起きて、当たり前に当たり前に昼食を食べて…
そんな半日が過ぎてましたよね。
花泉は3月になると、卒業式や送別会などのお仕事が多く
あの日も朝からあちこちの会場で行われる
送別会や謝恩会の花束を作っていました。
私は歯医者さんに行っている祖父母を迎えに行って
ちょうど車を降りたところでした。
いつまでも揺れてるのは、私の車が古いからかな…なんて
のん気に思ったのも束の間、
街全体の揺れ、歯医者さんの水槽の揺れと水浸しで
一気に状況が分かってきました。
帰り道、2キロ程度のものでしたが、停電で信号は真っ暗。
通行している車の感覚と倫理観で道を譲り合う市民。
それでもいつもの倍は時間がかかってやっと帰り着くと
情報が入らないスタッフたちは、鉢植えや花瓶などの
割れがないかを確かめていました。
日本の停電は、せいぜい数分から数十分。
そう思っていた私たちは、注文分の花束を作っていました。
今思えばあり得ない話ですが、注文に穴をあけてはいけないと
私の車のヘッドライトを店内に向けて花束をラッピングしていました。
「とりあえず時間通りに届けに行こう」と。
でも、届けると「今日はナシナシ!」と会場の担当者に言われ、
カーナビのテレビを見て、岩手・宮城・福島の沿岸部の
情報が初めて入り、事の重大さに気づかされ
全身の毛が逆立つような
今まで感じた事のない感情が沸いてきました…。
私は会津の実家のことが心配になりましたが、
メールでは「大丈夫です」と父と弟から返信があったので
ひとまず安心したのでした。
3日間の停電はとても長く感じました。
小雪も舞う寒い日々でした。
たびたび車に行って、携帯の充電をしながら
カーナビのテレビから流れる情報にその都度悲しくなり、
この先どうなってしまうのか、分からない不安と
余震におびえていました。
津波で親しかった友人も亡くしました。
大切な人たちの家も畑も無くなってしまいました。
あの年のお正月に母を亡くした私は、
実は生きる気力を失って、毎日泣き暮らして過ごしていましたが、
生きたくても生きられなかった人たちの報道を目の当たりにし、
「生かされている」「生きなきゃ」と
変わっていったのでした。
あれから、五年。
たくさんのことがありました。
どうしようもなく悲しい出来事も。
歳月はそれを和らげてくれる力を持っています。
新しい記憶が、古い記憶の上にかぶさるように積み上げられ
新しい建物が、新しい景色を作り出していきます。
実家で損害のあった神社も社務所も
今年いよいよ再建が始まります。
それでもまだそのままの土地がある。
塩分を含んだ畑で、何の実りも得られない場所がある。
まだまだ見つかっていない方もいる。
もう5年か、やっと5年かは
人それぞれの感覚だと思います。
今日は、そういったいろいろな気持ちを込めて
午後2時46分に黙とうを捧げたいと思います。
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2011 地震(東日本大震災)